近頃、ニュースの報道やインターネット上で、コロナウイルスについてたくさんの情報が飛び交っています。正しい情報もあれば、偽りのものもあり、デマもそれに加えてあるようです。 人々の間に広まっている情報がどんなものかをよく吟味しないでいると、恐れにつながり、恐怖が一旦人々に植えつけられるとパニックが始まってしまいます。
誰もが恐れることがある
誰もが人生の中で何かを恐れることがあると思います。私が子供の頃に怖かったものは、つないでない犬や学校での音読、ジェットコースターなどでした。
十代の頃にも怖いものがありました。先生に当てられて質問に答えさせられそうになること、またこれは良い方の恐れかもしれませんが、先生に叱られること。そして、幾分引っ込み思案だったので学校で1人になることもそうでした。年月が経ってこの恐れはなくなり、今は1人でいることも楽しめるように変わりましたが。時々、私は歳を取るほど恐れることは多くなるのか、それとも少なくなるのか疑問に思います。例えば、大人になれば、子供のこと、癌になることや年老いること、失業すること、収入が充分ないこと、災害などなど心配事のリストは増え続けます。人生には恐れることが山のようにありますが、恐れなくてもいいのです。
神に信頼できる
私たちが人生の中で、たとえどんなに恐ろしいことに直面しなければならなかったとしても、私たちを心にかけ完全に守ってくださる神様に頼ることができます。なぜなら、神様は私たちを愛してくださっているからです。
神様は私たちを愛し、私たちの何もかも知っておられます。私たちの髪の毛が何本あるのかさえも。聖書には、神様が海辺の砂の数ほど私たちのことを思ってくださっているとあります。神様が私たち一人ひとりに抱いておられる愛ほど大きく、深い愛は他では決して経験することのできないものです。その愛のうちに生きる時、恐れは消えていきます。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。第一ヨハネの手紙4:18
恐れるのをやめる
聖書は恐れないよう命じています。驚くべきことに、『恐れるな!』という言葉は聖書に365回、つまり1日1回分書かれています。全宇宙の創造者がくり返し、くり返し恐れるなと語ってくれているのだから、私たちはいかに神様が私たちのことを心にかけてくださっているかを知り、安息を得ることができる。私はそう思っています。 🙂
神は私たちに臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。テモテの手紙第二1:8
神が共にいてくださることを知る
私たちは神の子として神様が共におられるという確証を得ることができます。それはどんなことが起ころうとも神様が共に歩んでくださるのですべては大丈夫なのだと深く知ることです。
先日、2歳の男の子の孫が泊まりに来ました。私たちは2人でゲストルームに泊まりました。孫は子供のベッドで、私は大人のベッドで眠りました。夜中に彼は突然目を覚まして私の名前を呼びました。これはまだ2度目の我が家でのお泊りでしたし、部屋の中は真っ暗だったのです。私は「ここにいるよ。」と答えました。この単純な言葉で、彼はまたすぐに眠りにつくことができました。私にとってこの体験は、ただ誰か私たちを愛してくれる人がそばにいることがわかっただけで平安を体験することができるという素敵な例え話になりました。
私はあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこでても、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。ヨシュア記1:1
平安を得る
平安を得ることはたとえ困難な状況にあっても可能です。私はイエス様を信じる者としてこの人生が終わった時に何が待っているか知っていますから、いつかこの世を去ることを恐れていません。どんな事も神の愛から私たちを離すことはできないのです。キリストに従った人々の歴史の中で困難な状況にあっても平安のうちにいたという話はたくさんあります。この平安は私たち自身から出たものではなくイエス様が私たちのうちにもたらしてくださったものです。イエス様の平安は心配を信頼に変えてくれます。
わたしはあなたがたに平安を残します。私の平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。ヨハネの福音書14:27
私たちは乗り越えることができます。神様はどんな時も共にいてくださいます。
祝福がありますように。
ティーナ
Translated by Izumi Goto